カテゴリー別記事: ぞうき林

形あるもの

 本のもつ魅力に出合ったことがある人ならば誰しも感じたことがあるであろう気持ち。書架の並ぶ夕暮れの一室でページをめくる指の感覚と本の匂い。ぞくぞくするような読書の楽しさは物語世界にのめり込むと同時に、紙の質感がもたらしてくれるものだと思っていた。なので電子書籍が出たばかりのころは、読みづらいし味気ないとがっかりしたものだった▼美しい装丁の紙の束を買わずに文字列だけ買う。音楽CDを買わずに曲だけダウンロードするのと同じだ。中身さえあればいいと思えば小さな端末で好きなだけ持ち歩ける。保管する場所もとらずホコリもたまらない。最近は電子のページをめくるのもキレがあっていいなと思ったり、重々しい紙の質感を再現したものに出合ったりもして驚く。夜、消灯した寝室で布団にくるまりながら手の中の端末で読書する。今までできなかった姿勢で手軽に読めるのも楽しい▼物体を伴わない仮想現実的な価値にお金を払う機会が多くなってきた昨今。だが、幼い頃に繰り返し読んだ本を本棚の奥から引っ張り出し、めくったときにあふれてくる感慨は何物にも代えがたい。古びた紙からよみがえる当時の感覚。現実に形あるものの持つ力だ。(

片付かない

 年度末に向けて机の上の書類を片付けようと思うのだが、なかなか大変で、まだ使うかもしれないと思い始めれば、いつまでたっても捨て切れない。物理的な限界もあるので、思い切るしかない▼片を付けるという行為が苦手で、昔から苦労している。何かを終えてから別の何かを始めることをせず、何かしながら別の何かもするということが多い。よくない習慣だとは思う▼東日本大震災から6年。炉心溶融を起こした福島第1原発の廃炉作業はいまも継続中で、溶け落ちた核燃料がどのような状態なのかすらもまだ解明されていない。片付け作業はいつまでかかるのか、先は見通せない▼壊れた原発が片付かないままに、再稼働への動きはしきり。国も電力会社も、あれは福島の特殊ケースなのだと、そう割り切っているのだろうかといぶかしむ。後片付けができないということは、それを扱う能力がないという明白な証拠であるはずなのに▼おそらく重大な事故というものは、すべてが特殊ケースに違いない。福島のような重篤な事故がなぜ起きたのか、人的ミスがどこまで絡んだのか、謎はいまだ多い。それが他者に説明できるまで再稼働はすべきでないと、そう思わずにはいられない。(

桐生を選ぶ理由

 「東京以外で初めて、住んでもいいと思った」。全国ほとんどの都道府県を旅して回った人が、あえて桐生を選び、全国展開するビジネスの拠点を構えた。高級アウトドアブランド「ノルディスク」の正規代理店が10日、桐生市仲町の鉄工所跡で日本初のショールームを開いた▼赤城山や袈裟丸山、「桐生アルプス」と呼ばれる鳴神山―吾妻山の山脈、10万都市の真ん中でヤマメが釣れる渡良瀬川や桐生川、草木湖や梅田湖など、桐生地域が魅力的なフィールドであることは間違いない。さらに車で2時間も行けば尾瀬や上信越高原など国内第一級の大自然に飛び込める▼そうした立地に加え、ビジネスの面でも「東京より豊かで効率的」だと、小林宏明ディレクターは桐生を選んだ理由を語る▼経営コストとして無視できない家賃が、桐生は東京の「20分の1」。その分「20倍ていねいに商品の価値を伝えられる」という指摘は、アウトドア商品という特殊性を差し引いても傾聴に値する▼情報が物理的距離を飛び越えて広がる現在。IT技術を最大限に生かしつつ人から人へ価値を伝えるという、商売の原点に立ち返った仕事ができる。桐生はそんな可能性を実現できそうな街だという。(

写真の向こう側

 被災地の写真をじっと見つめる人がいる。桐生市役所ロビーで10日に始まった宮城県石巻市の震災写真展。その桐生市在住の50代女性に声をかけると、「去年の秋に夫婦で訪ねたばかりなんです」と、穏やかに話し始めた▼息子の住む仙台市を訪ねた際、たまたま足を延ばした石巻市。まちを見渡す高台の公園に着く。傍らにいた被災者と知り合い、震災当時の実体験を聞いた▼公園によく来るという年配男性。地震直後に息子と公園に逃げたが、近くの幼稚園に通う孫の姿が見えない。心配して様子を見に下りた息子は、津波に流されて今も行方不明だという▼園の送迎バスも津波で流され、5人の園児が命を落としたが、孫は別の場所で無事だった。年配男性の口調に無念さが募る▼つらい話を思い出させたことを詫びると、「聞いてくれてありがとう」と礼を言われた。「被災者の話を聞く。思いに寄り添う。被災地に縁のない自分にも、できることあるんだなって」。あの公園にまた行きたいと、女性は熱っぽく語った▼身近な人を亡くした人、ふるさとを追われた人、その思いに寄り添う人。それぞれに震災の風景がある。それらを一つひとつ丁寧に、伝えていけたらと思う。(

次善の夢

 ワールドベースボールクラシックたけなわだ。侍ジャパンは1次ラウンドの首位通過が決まり、ますます日本中が熱くなるだろう。選抜高校野球大会も10日午前、組み合わせが決まった。球都の名をいただく街に身を置く者として、競技人口減が続く野球が盛り上がるきっかけになればうれしい▼野球に限らず、スポーツに熱中するのは素晴らしい。さまざまな競技でプレーする子どもたちの少なからずが、きっとプロを夢見ているだろう。現実には、大人になっても本格的に選手を続けられるのは一握り。職業にできるのは、さらにわずかだ▼大好きなスポーツで競技者の道をどこかで諦めるとき、違う夢や目標を自ら探し、すぐに見つけられる人は少数派かもしれない。でも実は、選手や指導者以外にもスポーツに関わることのできる仕事って、意外とあるのだ▼理学療法士やトレーナーなど体のケアに関わる職業が人気だが、それだけではない。球団職員や通訳もあれば、法律やお金の面でプロを支える弁護士や税理士もある。データ分析の専門家も必要とされている▼閉ざされたようにみえて、実はたくさんの道が広がっている。示してあげるのは、周りの大人の役割だ。(