決して忘れない

 20年前の話である。フィンランドからドイツへ向かう航空機内で隣り合わせに座ったのがベテラン添乗員Hさんだった▼せり帽風のキャップを愛用し、笑うと治療中の前歯が一本なくて、あの旅をずっと包んでくれていた安心の風の出どころは、たぶんこの人であったと思うのだ▼そのHさんが、機内放送で機長が何事か語り始めると、手元の用紙にペンを走らせ、放送が終了するのとほぼ同時に席を立ってどこかへ行った▼聞きなれたHさんの声が機内に流れたのはそれから1、2分後のことだ。機長のあいさつを日本人旅行者のために翻訳してくれたのである▼その日本語は直訳ではなくて、流れるようにきれいなことばになっていた。席に戻ってきたHさんによれば、事情を話したら「ぜひやってくれ」と、申し出はむしろ歓迎されたという▼Hさんが、国政の重鎮が外遊の際に必ず指名してくるほどの実力者であることは後で知った。あのカッコよさに出会えたことはいまも、旅の感動と分かち難いままだ▼北海道の新千歳空港で離陸が遅れた航空機内で歌手の松山千春さんが「大空と大地の中で」を歌って乗客を喜ばせたそうである▼この日の歌声を人々は決して忘れないだろう。(

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