パラリンピックの問い

 ブラジルのリオデジャネイロではパラリンピック真っ盛り。先日は車いすテニス男子シングルスに出場している国枝慎吾選手の試合をテレビ観戦し、そのすごさを改めて感じた。

 両腕を使いながら車いすを自在に操縦し、ボールに追いついて片手でラケットを振りぬくのだが、その際、つねに相手の動きを読み、ボールが来るコースを予測して先回りをし、打ちやすい体勢を整える。チャンスとあらば相手との間合いを詰め、バウンドした直後のボールをたたき、相手が移動する時間を奪う。身体能力はもちろんのこと、そういった読みや駆け引き、こまやかなテクニックが試合を見るほどにくっきりと浮かび上がってくるからおもしろい。

 陸上競技に出場している障害者アスリートたちを見ても、失われた身体機能はそれぞれに異なるものの、支援する道具を使いこなし、残された能力をフルに生かして競技に挑んでいる。各人が体得した工夫やテクニックが、精いっぱいのプレーに表れ、そこに個性が光る。パラリンピックの見どころでもある。

 選手たちの生き生きとした表情を眺めながら、私たちにとって「障害」とは何なのだろうかと、つい考えてしまうのだ。

 例えば、年齢を重ねながら実感するのは、視力や聴力の低下、歯の痛み、肩や腰の痛みなど、いくつもの不良箇所が年を重ねるたびに出現するということ。今までは何げなくできていたことが徐々に難しくなる。

 生活に支障をきたすほどではなく、パラリンピックに出場している選手たちが抱える障害の度合いとは大きな隔たりがあることはもちろん承知している。ただ、加齢とともに表れるこうしたさまざまな違和感に、自覚のある人も多いはず。問題はその先で、本来あるべき機能を徐々に損ないつつも、誰もが日常生活を送り続けることのできる社会をどうやってつくるのか、そこに人間は苦心してきたし、いまもまだ課題を抱え、改善に心血を注いでいる。

 ゴールボールやボッチャといったパラリンピックの競技には、障害の有無に関係なく、誰もが一緒に競技できる要素があるのだという。障害があるのは当たり前で、それを前提に誰もが生き生きと暮らしやすい社会を目指す。アスリートたちの活躍に声援を送りながら、自分の心身や暮らし、地域社会を、見つめ直してみたいと思う。

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