書くことの意味を考える

 年度の初め、購入した新しい手帳にメモを書き込んだ。古い手帳に書き留めていた新年度分の取材の日時などで、いわば引き継ぎ作業のようなものだ。予定を記入しながら、昨年の今頃は何を書きつけていたのかと、ページを見返してみた。

 何日の何時に、どこで、どんな取材をしていたのか。さっさと読み終えてしまう程度の簡素な走り書きばかりである。それでもメモを読み返せば、取材をしたときの様子などが思い出されるから不思議なものだ。

 ページの余白に「電力自由化」の文字も読み取れる。昨年4月に導入された新しい仕組みの一つ。当時の自分がどこに関心を抱いていたのかがよくわかる。

 当時、東日本大震災から5年の節目が過ぎ、福島第1原発事故の廃炉作業が見通せない中で、発電方法や電力販売業者を自分で選択できる仕組みが整えられることへの期待が、メモをとらせた動機でもあった。

 書くという行為は、いずれは忘れ去られてしまうはずの記録や記憶を少しでも長くとどめるための作法である。文字にすることで自分の思いや考えを“見える化”する作業でもある。

 ジョージ・オーウェルの小説「1984年」は、完全監視社会に暮らす主人公の男がこっそり日記を書く記述から始まる。「1984年4月4日」という日付。そして「思考が自由な時代、人が個人個人異なりながら孤独ではない時代へ―」の書き込み。日記をつけていることが為政者側に見つかった場合、死刑もしくは25年以上の強制労働の過酷な罰が待っている。

 「戦争は平和なり 自由は隷従なり 無知は力なり」とうそぶく全体主義国家に暮らしながら、彼は反抗を抑えられない。

 理想とは真逆にあるような社会を舞台にした小説を作家が発表したのは1949年のこと。権力者たちは、自分の立場を脅かす都合の悪い事実を、人びとに忘れてほしい、なかったことにしてほしいと願う。小説の世界で作家は、個人が思いや考えを書き留めるという行為そのものを犯罪にしたてたわけだ。

 手帳に記す小さなメモなど、単なる記録にすぎない。それでも何かを書きつけることで、それを目にする将来の自分や、あるいは誰かに向けて事実を伝える。忘却に抗うよすがである。

 今は情報過多の時代。年度の初めに手帳を開き、書くことの意味を改めて考えている。

関連記事: