回り道を選ぶゆとり

 息子が大学受験に挑んだという父親と、年度末に話をした。国立大学を受験したのだが、結果は残念ながら不合格。私立大学も受けており、こちらは合格したものの、どうしてもやりたいことがあるからと、悩んだ末に浪人を決意したのだという。

 息子の選択を、父親は尊重した。納得できぬまま道を選び、後悔するよりも、もう1年勉強して志望の大学を目指す。「1年の回り道は決してマイナスにはならないと、私は思いますから」。学生に教える職業に就いている父親は、きっぱりと言い切る。息子が浪人という道を選んだ理由も、そんな父親の姿勢に影響を受けている気がした。

 50代前半の父親である。同世代の人にとって、受験浪人に対する抵抗感はさほど強くない。

 文部科学省の学校基本調査によると、ここ数年の18歳人口は120万人前後で推移している。彼らが大学を目指した1980年代前半の18歳人口は、それよりざっと50万人も多い。

 90年代になると、当時の文部省が大学の設置基準を大幅に緩和したおかげで、私立大学の数はそこから急激に増え、結果的に倍増することになるのが、80年代の大学受験といえばまだ、競争相手の多い狭き門だった。

 目的に向かって歩んできたのに、残念ながら道から外れてしまうことは多々ある。自分の力だけではなく、そこには運不運といった要素も加わる。受験はその最たるもので、多くの若者がそこで挫折を味わう。もちろん受験のときばかりではなく、自分の思いとは裏腹に、道を踏み外してしまうことは、社会に出てからも少なくない。

 ただ、道を踏み外して思わぬ回り道に迷い込んだときこそ、本当は大事なのだし、自分の意思や将来像を確認しながら、それを行動に結び付け、結果を求めるという、努力することの醍醐味があるのだと、社会人になってから思うことは多い。

 大学に進学することにそれほどの価値が認められないといった大人の声も、一方で耳にする。入ってはみたものの、理想とは違っていた。そんな体験が裏側にある。これもまた一つの考え方に違いないが、それが正解というわけでも、もちろんない。

 役に立つという視点から物事をとらえがちな時代だが、正解がすぐに判明するような設問ばかりではない。回り道も許されるような雰囲気こそ、今は大事なのではないかと思うのだ。

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