野良ネコの悲哀

 朝の通勤時のことである。対向車線の真ん中で、ひかれた子ネコのそばに寄り添ってたたずむもう1匹の子ネコと親ネコがいた。その姿を見つつゆっくり迂回していく車。ネコの好き嫌いにかかわらず、こうした光景に心動かされない人はいないだろう。野良ネコの悲哀だった。

 そこは、捨てネコが目立つ場所だ。犠牲になったネコの姿を見たのも1度や2度ではないけれど、昼前に同じ道を通ったらすでに現場が片付けられていた。それはいつものことで、こうした処理を黙々とこなしてくれる人がいる。感謝したい。

 昨今、ネコブームである。テレビでもネコの番組があり、ネコの気ままな振る舞いを愛してやまない人が多いのは時代の反映でもあるだろうが、飼うからには当然、責任が伴うものだ。

 「猫を飼はば その猫がまた争ひの種となるらむ かなしきわが家」は石川啄木のうたである。飼うことによって生じる責任について考えた作品だろう。

 野良ネコが畑を荒らさぬように水の入ったペットボトルをあちこち置いている知人は「鳥の食害の方が深刻だけどあまりに図々しいので」と笑った。エサをやるなと叱られたけど「捨てていく人がいるからかわいそう」と、最後まで世話をやめなかった婦人は「この子たちは悪さをしない」が口癖で、後片付けや周辺掃除を怠らなかった。

 これらは、それぞれの事情の中で自分の守備範囲や責任をわきまえ、対応していたケースであって、事を大げさにしたくない努力があったと思う。しかしながら、根本的問題は責任を持って飼うことができなかった人の無責任な行動にある。

 ネコは好きでも、ネコの仕業に腹が立つ人もいる。3匹のネコがいればお気に入りが生じてしまうのが人間であって、ネコの行動が神経を逆なでするのか否かも、この愛憎の領域との絡み方次第である。厄介なのはそれが人間関係に転化されたときに起きうるトラブルである。

 野生動物やペットとの距離をどのように保っていくかが本当に難しい時代になった。

 人にはどうしても好き嫌いが生じる。それが自然の理であるし、愛憎がないという世界も実に味気ないものである。

 だからこそ、それぞれの立場を尊重しあい、好きと嫌いが適度な距離を保って共存していける関係を模索していく努力が大事なことだと思うのである。

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