きょうは「山の日」

 11日は「山の日」だ。昨年に新設された国民の祝日である。

 登山人口は多い。とりわけ中高年の人気は高いが、近代日本に登山の面白さを広めて、今日の隆盛につなげた草分けといえば木暮理太郎さんだろう。

 木暮さんは1873年、太田市生まれ。初登山は6歳のときの赤城山だったそうである。

 人の気持ちはしぜんと日に向かいたがる。古代中国の時代から北は背であり、帰り行く方向の印象がつきまとうが、山岳の魅力にとりつかれた木暮さんにとっての北は、赤城山や日光の山々を望む方向であって、その前衛にくる足尾山地や桐生の山並みも含め、重要な原風景になっていたのではあるまいか。

 15歳で上京し、仙台二高を経て東京帝大哲学科に入り、後に史学科に移ったが、登山と趣味の絵画が高じて中退。編集の仕事に携わりながら、北アルプスや奥秩父、上信越の山々に登り続けた。結成されたばかりの日本山岳会に入って機関誌「山岳」の編集に携わるようになったのが大正の初めごろだった。

 浅草の凌雲閣はそのころ、日本で最も高い建物だった。そこにのぼって木暮さんが描いたのが有名な「東京から見える山」である。このスケッチをみて「皇海山」という奇妙な読み方をする山を知り、興味をかきたてられたのが、後に「日本百名山」を著した深田久弥さんである。

 木暮さんは1919年、友人と共に藪こぎをしながら道なき道を進み、皇海山頂へたどり着いた。後に「皇海山紀行」を著して、この難行の様子をつづり、「スカイ」という読み方がどのようにして生まれたのかという考察も加えている。古典的名著は「山の憶ひ出」。山登りの楽しみ方や研究対象としての山との向き合い方など、彼の著書に影響を受けた人は多かった。

 皇海山紀行は同年11月16日から20日までの5日がかり。木暮さんが住んでいた東京を東武線浅草駅から出発し、相老で足尾線に乗り換えて、原向で下車したという行程が記されている。

 皇海山は渡良瀬川源流の山であり、日本の登山ブームの夜明けとこのようにつながった私たちの土地をあらためて思う。

 標高100メートル台から1000メートル級まで多彩な山に満ち、そういう環境にあわせて登ったり散歩したり、山菜やキノコ採りを楽しんだり、キャンプや釣りもできる。桐生のよさをしみじみと味わいたいものだ。

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