心に届くことば

 社会に期待したり、人を信じてみたくなる。そうした出会いによって開かれる世界があることを知らぬまま、絶望のうちに自らの命を絶つ子どもがいるのは何とも辛いことである。

 さらに、話を聞いてもらいたい気持ちに付け込まれ、犯罪に巻き込まれた若者もいる。そこまで追い込まれる前に何か手立てはなかったのか、と言うのはたやすいが、そうした若者の懊悩と向き合った人々がいたことを思えば、最近の事件についてはまだ軽々には語れない。

 生きる意味というほど大げさではないが「長年やってきたことの意味が最近やっとわかりかけてきた」と、語る先達が少なくない。それは取材を通じて実感していることである。

 迷わずに精進してきた人ほどその傾向がある。わかりかけたとは、いまだ至らないという気持ちの裏返しであって、要はそれを生きる糧としているのだ。

 そんな話を聞くと、正直ホッとするのである。自分だけが手探り状態にいるわけではないのだと。みんな悩んでいて、不安も抱えていると。あっちこっちへウロウロしながら、一生懸命に生きていけばそれでいいじゃないかと。結局私たちは人に学び、支えられているのである。

 見方はひとつではない。明日になればきっと違った風景が見えてくるよと、励ましてくれた人もいた。他人の生き方を尊重し、それを肯定しながら、歩もうとするタイミングを逃さずポンと背中を押してくれたのだ。

 世の中はどこをみても矛盾だらけである。その矛盾が顔を出しても責任ある立場の人がごまかしを何とも思わない昨今。

 しかしながら、積もり積もった不平不満が弱者を直撃する構造がそこにあれば、そのゆがみにはまってもがく若者を見守ってやるのは大人の務めである。

 彼らの前途にもっと違った世界が開けるように導いてやれるのは、真摯な人の生き方や、思いやりに満ちた言葉なのだ。

 先日の新聞が、教科書の文章をきちんと理解できない中学生が多いという調査結果を報じていた。読みながらふと思う。面白い教科には心に届く言葉を持った先生がいたものである。

 すべての責任を学校に押し付けるつもりはないが、追い込まれていく子どもの環境を思いやれば、力を尽くせる余地は多いはずだ。子どもの気持ちが折れぬよう、いっそう心を砕いてほしいと願わずにいられない。

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