改めて手間を考える 

 1年近くたつのだが、今年の新年号で「手間」を取り上げた。効率を追い求める暮らしの中で、私たちはいかに手をかけず時間をかけず、それでいて首尾よい結果を得ることができるのか。誰かがつくった道具や仕組み、有形無形のサービスを巧みに利用して、さまざまな手間を省くことに力を注いできた。

 煩雑でつまらない作業だと分かっているならばできるだけ省きたいものだと、そう思うのも無理からぬこと。省いても同じ結果が得られるとすれば、少しでも楽なやり方で目的に到達したいという気持ちは、感覚的にもよく分かる。新しいものに価値を見いだそうとする消費資本主義の価値観にほかならない。

 ただ、一方で当然の疑問もちらつく。手間をかけずに得た結果は、手間をかけて得たものと同質のものなのだろうか。

 新年号の取材でも、手間のかかる作業そのものにおもしろさを見いだし、楽しんでいる人びとの声に出あった。労力を注ぎ時間をかけることで、得られる結果はほかならぬ自分自身のものとなる。仕事でも趣味でもそう。そこには何ものにも代えがたい充実感があるのだと、これは共通した声であった。

 省かれた手間はいったいどこに消えてしまうのか。これもまた一つの疑問で、本来ならば自分が担うべき手間を、この国や他の国の誰かに肩代わりしてもらっているだけなのではないかと、そんな不安がつきまとう。

 自分が楽をした分のつけが、時間や空間を超え、どこかの誰かに降りかかる。そのつけは人間ばかりでなく、他の生物にまで影響を与えているのかもしれず、例えば今季、サンマやサケといった魚の漁獲量が激減している現象の遠因さえ、あまりにも多くの手間を省略している私たちの暮らし方と、どこかで通じているのではないかといぶかる。温室効果ガスの排出量増加や地球温暖化、気候変動といった物語が読めてしまうのだ。

 これまであった手間の省略が人の心理や行動にどんな影響をもたらすのか。それを実証するための壮大な社会実験に、ただいま取り組んでいる最中なのだととらえることもできる。

 省いた手間はめぐりめぐっていつか自分に戻ってくる。そのように完結すればまだいいのだが、事は単純ではない。手間がかかるからこそ立ち止まり、考え、行動の歯止めとなる。間のない社会には、遊びもない。

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