仕事で交換するもの

 年の瀬に、お隣から立派なダイコンをいただいた。本職の農家ではないが、小さな畑をこつこつと耕しては、季節に合わせて旬の野菜を育てており、時折届くおいしいおすそ分けは、他には代えがたい喜びである。

 土づくりから収穫まで、かける手間の多さや実った作物の出来栄えを考えれば、小売店で買った方が断然安くつくはずだと、そんな愚痴も耳にするのだが、表情はまんざらでもない。

 自分なりのノウハウをつぎ込んで育てた野菜に満足感を抱いている様子が、こちらにもはっきりと伝わってくるのだ。

 日々の暮らしを営む上で必要なものは、自分や家族、集落といった目に見える範囲でつくりだす。人間は長い間、そうやって生活を営んできたはずなのだが、経済の仕組みはいつのまにか複雑かつ広大になり、つくる人とそれを必要とする人との距離は大きく隔てられてしまった。

 私が手掛けた仕事はきっと、いつかどこかで誰かのために役立つはず。その仕事で得た報酬によって、私はどこかの誰かがつくったものやサービスを手に入れる。仕事の価値は、時間当たりの賃金といった数字によって比較化される。自分の仕事がどこかで誰かのために役立っていることを確認するための、数少ない手応えの一つである。

 お隣からいただくダイコンはもちろん無償である。そこには市場経済には組み込まれない、別の価値観に基づいた交換がある。お金には換算されない満足感や感謝、承認といった、お互いの感情の交換である。

 少子高齢化が進む中、働き方改革こそ重要だと国はいう。女性や高齢者が労働参加しやすい環境を整え、労働生産性を向上させ、ゆとりのある暮らし方を実現しようというわけだ。

 大事な視点であることは確かだ。でも、同時に考えるべきことはないか。分業化が進み、世界が一つの経済システムに覆われる中で、求められているのは感情の交換ではないのか。

 例えば、いま私が手に入れたものは、誰がいつどこでつくり、ここまでどうやってたどり着いたのかと、想像をめぐらせてみる。自分の仕事が誰かの役に立っているという感覚を取り戻すきっかけでもあるはずだ。

 こうした感情のやりとりに、これからの経済の可能性が含まれているのだとすれば、地域という顔の見える広がりにこそ未来があるのだとも思えるのだ。

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