パラリンピックに思う

 ロシアのソチで開かれていた冬季パラリンピックが17日、閉幕した。競技をテレビ観戦しながら、人間がスポーツすることのおもしろさと、パラリンピックというイベントの意味を、改めて感じとることができた。

 とりわけ印象深かったのは屋外での個人競技だ。スキーのアルペン競技は、先に開かれたソチ五輪と同じ会場で実施されたのだが、コースは急で、雪面は荒れ、旗門設定も難しく、雨や霧で視界がきかない天候不良の日も多かった。過酷な条件のなかで、選手たちは持ち合わせる能力をすべて出し尽くし、目の前の困難に果敢に挑んでいた。

 競技には座位と立位の2部門があり、選手は失われた能力に応じてエントリーしている。障害の程度は一人ひとり異なるため、例えば立位の部を見ても、両腕と片足だけで滑る選手、片腕と両足で滑る選手など千差万別。滑走のスタイルも変わってくる。座位の部でも、器具に座って滑るかたちこそ同じだが、滑り方には個性があり、アスリートたちが体を鍛えるだけでなく、いまある能力を使い切るため、自分に合った滑り方を試行錯誤の中で見つけ出した経過が見えるようでもある。

 器具の改良も、選手たちが思い描いた滑りを達成するための大きな助力になっているはずで、斜面に逆らうようにからだを傾け、腰を強く曲げ、急斜面を滑り降りる姿には、器具の性能や、それを開発したスタッフへの強い信頼感が表れていた。

 マイナスイメージでとらえられがちな障害だが、「弱さ」とは「感じやすさ」にも通じる。回転座位で優勝した鈴木猛史選手が「自分の障害は軽い方なので」と答えていたが、選手どうしにはおそらく、強い共感があるのだろうと想像する。

 自分の障害と向き合い、失われている能力を補完するように残存する能力を鍛え、先を予測する能力を磨き、経験を重ねて知恵をつけ、過酷な環境に対峙する。その姿は、国家という枠でメダル数を競いあうような視点からはほど遠い。私たちは多かれ少なかれ障害を抱えているし、年齢とともに程度も増してゆく。そのことと向き合うとき、これまでと異なる価値観を受け入れざるをえなくなる。スポーツとは強い国をつくるための手段ではない。自分を見つめ、支えてくれる人たちを思い、環境を考え、さらに他者と交流するための手段なのだ。

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