差異を超えていく

 個人的な体験で恐縮だが、桐生市に生まれ、子ども時代の半分を大間々町で過ごし、また桐生に戻って現在に至る道筋において、いつも眺め、気にとめてきた山は四つ。赤城山と袈裟丸山と吾妻山と要害山である。

 自宅から一歩外に出れば、桐生では吾妻山、大間々では要害山の姿がすぐ目に飛び込んできたし、赤城山は冬将軍に向かい立つ盾であり、大間々駅の近くでふいに姿を現す袈裟丸山はとても無口で奥ゆかしかった。

 現在はというと、なじみ深さで並べれば吾妻山、赤城山、要害山、袈裟丸山の順である。もちろんこれはいまの暮らしとの関係性で決まるもので、それぞれの位置で、人の数だけ思い入れが存在する世界である。

 ただ、そうした差異は認めつつも、大きな視点からみて、この一帯が渡良瀬川の流域に広がり、日光足尾山地を後背としつつ、赤城山のふもとに寄り添った環境の下にあり、歴史的には足尾銅山と密接で、織物産業によって分かちがたく結ばれてきたことは多くの人の知るところであって、現実の生活圏がそれを礎にしている感覚はすでに共有されているように思うのだ。

 平成の合併で現在の桐生市が2005年にスタートし、みどり市が2006年に誕生した。

 桐生市は東西二つの地域に分かれ、みどり市の場合は地続きながら、幹線道路は桐生をはさんでつながれている。行政の枠組みなど、ふだんはあまり実感を伴わないけれども、地図の形を見るたびに、やっぱり現状の不自然さは否めないのである。

 日本のもの作りの力が落ちていると、国はいまテコ入れに躍起だが、もの作りを担ってきた私たちの地域にとってもこれは新たな産業問題として受け入れるべき命題であり、自然な形で手を取り合って、持続可能な発展の道筋を描くことこそ、私たちの故郷の未来像の芯なのだ。

 その答えが、合併にあるわけではない。しかし、この不自然な形を生んだ要因は何だったのか、そこには歩み寄る余地はなかったのかと、もう一度原点に戻って考えてみる機会を互いに持つことは大切だと思う。

 たとえば2021年は、桐生市が市制100周年を迎え、みどり市は市制15周年の節目である。新たな関係性を探る論議を深めていくにはそういう目標もあっていい。差異を超える手立てを見いだす。これは政治力と文化の力の発揮どころだ。

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