水辺のある暮らし

 法政大学教授の陣内秀信さんは「水都学」なる学問を提唱している。私たちの暮らしの中で水が果たしてきた役割について、歴史や文化、エコロジー、地域づくりといった観点から、もう一度見つめ直してみる。そんな学問なのだという。先日、桐生を訪れた陣内さんの話に耳を傾けながら、市内にある実家のそばを流れる2本の水路のことを思い返していた。

 いずれも川幅1メートルほどの細い水路。1970年代後半にコンクリート製のふたがはめられ、いまでは道路の一部となっているのだが、水の流れが目視できたころ、水路は子どもたちの遊び場で、水辺に生き物の姿を求めては、流れに沿って毎日ふらふらさまよっていた。年に2度ほど、地域の住民たちが川底の泥をさらい、ごみを拾い、水の流れをよくしていた。堀さらいの風景も記憶の一つである。

 生き物探しにあきれば、水路沿いに旅をしてみたくなる。まずは一方の用水を上流へと向かう。町会を越えて学校区をまたぎ、分流と合流を繰り返しながら、やがてその水が「赤岩用水」と呼ばれる渡良瀬川から取り入れた流れの一部であることに気づく。もう一方の用水は別系統で、こちらの流れを遡行するといずれ桐生川へと至る。水路には水車がかかっていた。下流には田んぼが広がり、牛を飼育している農家の裏手にも、同じように水車が設けられていた。

 少し上空から地域を眺めれば、そこには毛細血管のように張り巡らされた複雑な水路網が見えたはずだ。ある水路の水には、いつも色がついていた。独特のにおいもあり、染め屋から流れ出た廃水の色なのだと、大人から教えられた。水車はいくつも存在し、撚りの動力源などとして利活用していた。一方、家庭の台所で使用した生活由来の汚水も流れ込んでおり、決してきれいな流れではなかったが、それでも水辺は住民にとって暮らしの潤いであった。

 水都学の講話で、コロンバス通りの下を流れる新川のことが話題となった。流水の一部を外に出し、市街地に水辺を復活できないか。そんな問いかけだった。自然豊かな桐生市だが、市街地に水辺や緑が少ない。指摘は以前から耳にしてきたものだ。実践するとなれば、困難はもちろんあるはず。ただ、暮らしの中で水辺の存在は思った以上に大きい。近代化の過程で気づいた、喪失感の一つである。

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