手間を楽しむゆとり

 東京駅で乗り換える際、駅弁の専門店に入ってみた。有名どころの商品がずらりと並んで店内は大混雑である。買いたいものはあったが、いつか旅に出たときのために楽しみはとっておきたいと思う方だ。買わずに出てきたが、多くの人はたくさん抱えてレジに列を作っていた。

 私たちの社会が、利便性の向上を目指して歩んできた道程がある。方向性は明確だ。まずは手間を省くこと、そして、何かをやりながら何かが出来るという組み合わせの知恵。組み合わせのアイデアで暮らしの幅を一気に広げてきた現代である。

 旅に出なくとも話題の駅弁が楽しめるのだ。旅と駅弁を切り離し、駅弁を商品として独り立ちさせたことで、それを望んでいたファンを動かした。これはまぎれもなく成功例だろう。

 一方でこうも思う。駅弁が買えるなら現地に行くまでもないと考える人もいるはずだ。食べ物にはそういう力がある。

 組み合わせることで切り離されていくものもある。そのことを私たちは忘れがちだが、集約とはさまざまな選択肢を平均化の流れに乗せることであり、当然のことながら効率化や大規模化は容易になるが、個の特徴はどうしてもこぼれ落ちていく。

 なじみの豆腐店がまた一つ消えると聞いた。厚揚げの味は店ごとに違いがあり、その比較は楽しみだったが、選択肢は随分狭まってしまった。内因は後継者不足だが、外因として、手間を惜しむ現代の価値観がこうした仕事を効率化の外へと押しやってきた環境があるだろう。

 だが、そうやって個の仕事が消えていく世の中がどうなっているかといえば、著しいのが富の集中だ。マイナンバー制度はさらなる効率化を加速しそうだが、早々に汚職が発覚した。恐らくはそこに、富の集中のにおいといったものがあるのだ。

 かつてテレビは夢の機器だった。カラーになり、録画機能を持ち、好きな番組がいつでも見られるようになったが、人の心がテレビから離れ始めたのも同じころからではなかったか。

 私たちはいま、効率化という峠の上で過去を見て、未来を眺めている。昔のよさを実生活に取り入れたい世代の働きが若い世代の心を動かす。そういう組み合わせによって、たとえ効率化の大勢は変えられずとも、使い分けによる多様化や緩和は可能だと思うのだ。大切なのは手間を楽しむ心のゆとりである。

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