続・手間を楽しむゆとり

 汎用の機器というものは多くの人の使い方に対応できるようになっているから、車のナビゲーションシステムの役割のように、大型車も小型車も通れる道を案内するのが一般的仕様だ。

 どのような分野においても高度なプロが育つのが私たちの世界である。その鮮やかな手際には必ず独自の段取りがあり、さまざまな工夫によるバイパスが通っているから、慣れない人がやろうとしても、簡単にはたどりつけず、3、4倍の時間がかかってしまうことはザラだ。

 便利な機器の開発にはそういうプロの知恵が大いに役立っている。だから、便利になったと感じる人がいる一方、その機器を「帯に短し襷に長し」と感じる人がいるのも自然である。

 短時間でたくさんの仕事をこなさなければならないことがある。人それぞれの環境に応じて、これらの機器があるからこそ生活が可能になっているケースもたくさんあって、文明の利器が現代の根底を支えてくれているありがたさは素直に認めなければならないことだろう。

 しかし、こうした便利さによって生み出されたたくさんの時間をどのようなことに振り向けながら、楽しみを見いだしているかといえば、人の心を動かしているのは案外、思うようにいかないことや、日常で味わえない不便さであったりする。

 純粋な手仕事のものを求めてみたり、既成に飽き足らずに自分でこしらえてみたり、運動不足の身体を鍛えたり。手始めに取り組むのは大抵、使わなくなって眠っている機能を手間で取り戻していくような領域だ。

 身の回りに、忙しい仕事の傍らで家事一切を平然とこなしている人が多い。「料理は奥深い」と、そんな感想をもらす人もいて、おそらく今後、そうした人はもっと増えていくだろう。

 なぜならば、生活に必要な行動とは仕事と同様に段取りが大切である。頭の体操や運動になったり、何かを作ったり、さらに熟練していくという楽しみにも直結して、現代人が追い求める趣味の要素をすべて備えた世界だからである。

 便利なものは確実にある。それで助かる人々はいる。しかし自分の生活にその便利さはどこまで必要か、楽しみを譲り渡していないかは見定めたい。

 いろんな引き出しを持つ必要はない。大切なのは、自分に最適な部分を抜き出して、ゆとりにつなげることだと思うのだ。

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