「井戸塀」を考える 

 「井戸塀」とは、政治には金がかかり、私財を費やし、井戸と塀しか残らないというたとえである。転じて、政治を生業とせず、名誉とわきまえて社会に尽くした人をたたえ、清廉さを評することばとも理解したい。

 戦後初の公選市長として桐生市政を4期担った前原一治さんは、当時を知る市民からはワンマンとよばれていたが、その清廉さを疑う人はいなかった。

 豪腕だが優しさを備え、何が市民のためになるかで政策の優先順位を決めていた。その業績を見返せば、確かにそこに揺るがぬ芯が感じられるのである。

 月ごとにさまざまな請求書が届く。公務が終わると、それを振り分けるのが市長のひと仕事だった。交渉ごとに利用した飲食や接待のひとつひとつを確認し、「これは私的なもの」と自分の元に置き、公的なものは総務の職員に渡したが、ほとんどが市長の前に積みあがった。

 たまりかねて、職員が「これは公務でしょう」と手を出すと「いや、いいんだ」とさえぎって、黙々作業を続けたそうだ。

 政治家は、私たち国民の一人ひとりが権力を委ねる人たちである。その責任の重さを理解している人には、税金の使い道を厳しく戒めるのは当たりまえのことであったのだろう。

 前原さんは混乱の時代が必要とした人でもあった。あのころは全国で、そうした人材がたくさん輩出されたはずである。

 政治家が名誉職でなく職業となったいま、井戸塀は現実にそぐわない。しかし、学ぶべき道理がある。権力者が負う道義的責任と果たし方も同じはずだ。

 手厚い報酬をもらっているなら、日ごろの政治活動と分かちがたい部分は私的だと割り切るくらいの腹は固めてほしい。

 よその自治体の事情に言及する立場ではないが、日本の首都の政治状況はいったいどうしたことだろうか。強大な権力を持った知事が有権者への説明責任を果たす前に弁護士に判断を委ね、政治資金の使い道に、「不適切だが、違法ではない」などの指摘を受けている。

 近年は、マスコミで有名になって立候補し、政治家になるケースが多い。こうした人はたいてい弁舌が巧みで、論破の切れのよさに多くの有権者は期待してきたが、その弁舌が窮地の言い訳に発揮される状況を何度も見続けると、政治家にとって弁舌とは本当に大事な資質なのかと、考えてしまうのである。

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