カスリーン台風から70年 急流が家族を押し流した

 桐生地域で多くの犠牲者を出した1947年9月のカスリーン台風から70年。被害が大きかった桐生市新宿地区で被災した元住民らが先週、被災体験を次世代に語り継ごうという座談会を開いた。渡良瀬川と桐生川の氾濫流が一つになり、急流となって市街地を押し流した同地区。“救われた命”と“救えなかった命”をめぐる記憶が、70年後の今を生きるわたしたちに、水害と隣り合わせの地域に暮らす現実を思い起こさせる。

 「当時を知る人が少なくなっている」「自分たちが得た教訓を、これからの地域づくりに生かしてほしい」

 そんな思いを胸に、市立南公民館で8日に初めて開いた被災者懇談会。昭和通り(旧国道50号)沿いの新宿三丁目周辺に当時住んでいた被災者とその配偶者が集まった。

 出席者は春山章さん(87)と雅子さん(81)夫婦=新宿二丁目=、高萩惇子さん(74)=同三丁目=、籾山博さん(81)=同=、小澤表貞さん(79)と愛子さん(79)夫婦=同=、中島建三さん(80)=みどり市笠懸町阿左美=の7人。

濁流が襲った夜
 同地区を濁流が襲った70年前の9月15日夜。堤防決壊で市街地に侵入した渡良瀬川(新川経由)と桐生川の水が一本に合流して勢いを増し、通り沿いの家々を次々にのみ込んだ。

 土砂降りの外は真っ暗。ゴウゴウという地鳴りに加え、家がきしむ音や崩れる音、「助けてくれ」という叫び声、言葉にならない悲鳴などが繰り返し聞こえたという。

 被災者が異口同音に語るのが、水流と水位上昇の猛烈な速さ。渡良瀬川と桐生川の扇状地が重なる桐生市街は傾斜がきつく、水流は高速化して水位も急上昇するのが特徴だ。

 「水位がひざ下くらいでも、水流が速くてなかなか歩けず、避難中に何度も倒れそうになった」「家の中に水が入ってきたなと思ったら、みるみるうちに胸の高さまで来た」

 さらに怖いのが、濁流に交じる流木や建材の破壊力。「押し流された家の材木が、高速水流で勢いを増し、さらに次の家を押し流す。まるでドミノ倒し」との声も上がった。

友人は流された
 警防団員として救助活動をした当時17歳の春山章さんには、忘れられない記憶がある。

 濁流にのみ込まれそうな電柱に、少年とその父親がしがみつく。団員仲間がロープを体に巻いて電柱まで泳ぎ、春山さんら十数人の団員が対岸からロープを引っ張って救出。よく見ると友人の父親と弟だった。

 しかし同じころ、当時15歳だったその友人は、幼い妹を抱えて濁流と闘っていた。何かにつかまって水面から顔を出した瞬間、手元に勢いよく流木がぶつかる。ふと気づくと、抱えていたはずの妹の姿がなかった。

 春山さんは後日、その話を友人から直接聞いた。警防団に助けられた父と一番上の弟は無事だったが、母と幼い妹2人と弟2人の家族5人を亡くした友人。助けられなかった無念さを涙ながらに語ったという。

 その友人の名は山賀唯夫さん。長男の達弘さん(61)によると、9年前に亡くなるまで家族には当時の話をほとんどしなかった。仏壇の位牌(いはい)に刻まれた同じ命日の5人の名前、そして38歳、10歳、7歳、5歳、3歳と並んだ数字が一家の悲劇を今に伝えている。

一刻も早い避難を
 座談会の出席者の多くは、水位が低い段階で近くの寺や建物の2階に避難して無事だった。押し入れから天井伝いに屋根へ逃げて助かった人も。寝たきりの病人がいる家は、近所の人が避難を手伝ったという。

 彼らに共通するのは「一刻も早く避難する」という姿勢だ。「水害と隣り合わせの地域で暮らす以上、いつか必ず水害は来ると覚悟すべき」と口々に語る被災者たち。早期避難の大切さは昔も今も変わらない。

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